第10輪 スペインではヒツジになってはいけない。死をめぐる冒険が始まるから

 見つけたって報告してるんだ! 
 あの柑橘やろうを捕まえるまで、本部には帰れねェ! 
 いいかてめェら! 次元の果てまで追いかけるぞ!

          ――ソルト

 朝8時30分。
 太陽はのぼり、目覚めた人間たちが仕事を始めると、街は動き出す。
 荷物を運搬する役目が、馬車からトラックに取って代わられた現代だが、スペインの古都サラゴサでは、まだまだ馬車が主流だろう。
 地中海にそそぐエブロ川の中流に位置するサラゴサは、歴史的建造物の多い美しい都市だった。
 サラゴサの建物は、人間界でも価値が高い。
 イスラム教とキリスト教の文化が融合した宮殿。長い歴史のなかで、さまざまな文化の建築スタイルがミックスされた教会。ローマ帝国時代の劇場、浴場、集会場や城壁は、2千年近くたったいまでも残されている。
 文化的、芸術的、そして歴史的な遺産が保存された街。それがサラゴサだった。
 たくさんの人間がおとずれたがるのもうなずける。
 まさか、サラゴサに来ちまうなんて。
 いや、サラゴサだったのは、運がよかったといえる。これ以上はなれていたら、香りが完全になくなって途方にくれていただろう。
 ヒツジは朝日がきらきら反射するエブロ川を見ながら、雄叫びをあげ、ピエドラ橋を一直線に駆け抜けた。ひづめで、石の橋がかたかた鳴る。
 霊感のない人間が、何かの気配にけげんな顔をした。

(はぁ。このピエドラ橋――ライオン橋ともいわれる――からの眺め、最高。諸君にもぜひ見せたいもんだ。どっかのセーヌ川とはおおちがいだな。朝日をあびて、宝石のようにかがやくエブロ川。そして、川のとなりにたたずむ聖母ピラール大聖堂。壮観。時間さえあれば、川のほとりに体育座りして、ずっと見るのに)

 スペインはおとなりフランスとちがい、世界大戦に参加していない。だから、通りを歩く人の顔はみんなハッピーだと思ったが、案外そうでもないらしい。
 戦争、戦争、戦争の連続で、ムリに領土を広げようとしたツケがまわって来たんだ。
 ま、16世紀の【バトル・オブ・アマルダ】(アマルダ・ウォーズ、あるいはアマルダ海戦)で無敵艦隊イングランド海軍に負けたことが、運のつきだったな。

(この戦争の結果、太陽の沈まない国とまでいわれたスペイン帝国は衰退し、代わりに1世紀のち、イングランド大英帝国に変身した。
 ちなみに、バトル・オブ・アマルダのスペイン艦隊は、イングランド側から皮肉をこめて、〝無敵艦隊〟と呼ばれてたらしい。おそろしい見かけのわりに、大したことないという意味だ。スペイン側が自称してたのは〝最高の祝福を受けた大いなる艦隊〟。どっちにせよ、カッコつけたがりの中学生がつけたネーミングであることにちがいない)

 それから革命、オランダとポルトガルの独立、王家であるハプスブルク家の断絶、悪ガキナポ公の進撃、いろんなことがあって経済は破綻し、都市だけじゃなく農村でも暴動があいつぎ、治安は最悪の状態。かつての黄金時代のおもかげはなく、政治の混乱は深刻さを増していた。
 さすがのオレも、大丈夫かと心配になる。
 よく国として続いてるな。
 人々の生活は貧しく、服もぼろぼろで、いまを生きるのも精いっぱい。その日の暮らしにさえ困っていた。
 下級霊は、治安のわるいところや、ネガティブな感情を好んで集まってくる。
 せめて皿を割る悪霊がいないことを、オレは祈った。
 オレはピラール広場に着いた。石のタイルが敷きつめられた広い通りには、かくれる場所がなかった。急いでどこかにかくれないと!
 ヒツジは、ささっと側転して後方倒立回転跳びを決めると、球状のモニュメントのうしろにかくれた。通りのど真ん中に位置してるため、かくれ場所としちゃ少し物たりない気もするが、聖母ピラール大聖堂から見えなければ十分だ。
 それにしてもこの物体、なんで造られたのか意味がわからない。地球らしいが……いまはどうでもいいな。
 聖母ピラール大聖堂が前にある。霊視すると、香りは入り口からなかへ続いている。
 あのなかに、ラベンダーたちがいるはずだ。
 さて。どうやって忍びこもう?
 入り口には見張りのブタが2匹いた。凶悪なブラスターをかまえてる。
 バジリコたちもいるんだ。玄関をノックして、おじゃましますというわけにはいかない。
 1番いいアイディアは、鳥に変身して窓から侵入する方法だが……。
 聖母ピラール大聖堂は、一見するとふつうの人間界の建物だった。だが、何か罠が仕掛けられてるにちがいない。
 オレは霊視の度数を高めた。しばらくの間、目に力を入れてると、ブレていた焦点が、だんだんと合い始め、聖母ピラール大聖堂のまわりを緑色の網がおおっているのが見えた。
 結界だ。あれに触れると、どうなるんだろう? 防犯ブザーが鳴り、侵入がバレる? それとも、霊体が溶けるのか? いずれにしろさわらないに越したことはない。
 まいった。窓からの侵入は不可能だ。どうやら、網がかかってないのは入り口だけだ。
 ……正面から入るしかないのか?
 危険すぎる。なかの状況がわからない以上、戦闘は避けたい。それに、どんなトラップが待ち受けてるかもわからない。ハエにでも変身できれば苦労しないのに。
 ほかに方法はないのか?
 腕時計を見ると、時刻はすでに9時をまわっていた。あと5時間もない。午後2時までにスパフを取りもどし処分しなければ、ガトフォセは助からない。オレはモニュメントをなぐった。
 クソッ、どうしてこんな面倒なことに! もっとかんたんなはずだったのに!
 いっそのこと、ジジイに助けを求めるか?
 いや、連絡した時点でアロマ連合に現在地がバレる。アロマ連合にほんとうのことを話して救援してもらえれば、ありがたいんだが、オレの話を信じるやつはいないだろう。呼んでも、事態をややこしくさせるだけだ。
 それに、アロマ連合だけじゃない。ゼンマイ仕掛けの騎士団もオレを追ってる。
 急がないと、タイムオーバーになる!
 早くなかへ入る方法を考えないと!
 不安と緊張と疲労で、体があつかった。
 たった19時間の間に、いろんなことがあった。きのうの昼間は、ラベンダーといつもみたいにケンカしてたのに、ガトフォセが倒れて、スパフを捕まえて、それから。いろんなことが起こって。
 ここはフランスとそう温度も変わらないし、オレの霊体は炎に近いエネルギーで構成されているのに、体が熱く感じる。じめじめと湿気のある、じっとりした不快感。吐きたい気分。
 あのソルトとかいう塩の精霊は、動物界を疑ってたな。ブタたちのUFOは、おそらく動物界から盗んだものだろう。あいつらのせいで、植物界と動物界の確執がまた深まることになる。まったく、なんてことしてくれたんだ! ただでさえ緊張状態なのに!
 人間をどうするかで争いを起こせば、地球の環境はどんどん悪いほうに傾いていく。
 植物界も動物界も、方針こそちがえど、地球の次元環境を発展させようとしている仲間なのに!
 とうとうオレのストレスは限界に達した。
 いずれにしろオレはもう、アロマ連合のナイトじゃない。界際問題について悩むのはやめた。
 途端、どうしてこんなに必死になってるのか疑問がわいた。
 必死になってる自分が馬花らしくなってくる。
 目をつむる。

 ガトフォセを、助けなくてもいいのでは?

 結局、ただの人間だ。

 ラベンダーたちを、助けなくてもいいのでは?

 バジリコは植物至上主義者だから、きっと、花にはやさしいだろう。
 それにオレも、命を危険にさらさなくてすむ。

 地球の環境を気にしなくても、いいのでは?

 星なんて、どうせまた生まれる。
 地球に生まれたが、地球の環境がメチャクチャなのは、オレのせいじゃない。背負う必要はない。

 自分のやりたいことをしても、いいのでは?

 人間も精霊も、生まれたときから何かに所属している。国。世界。星。だが、そんなのは幻想だ。そう思わされてるだけで、オレたちは何にもとらわれない、自由な存在だ。どこにも所属しないで、やろうと思えば1人でだって、生きることはできる。
 まわりの問題に知らないふりして、自分の人生を楽しむ権利だってあるはずだ。

 深く、深呼吸。
 
 深く、深く。自分の心のなかにもぐる。

 勢いでここまで来た。次は、どうすればいい?

 オレはいったい、どうするべきなんだ?

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 ……………………

 ……。

 あァ、うぜェ‼︎
 
 うだうだ悩むのはもうやめだ。

 らしくない! オレらしくないんだ!

 その場のノリで行動するのがオレンジ主義なの! だいいち、刺激のない人生なんて、つまらない!

 やりたいことをただやる! 危険があっても後悔したくない!

 アロマ連合も、動物界も、ゼンマイ仕掛けの騎士団も、植物至上主義者も、地球をよくしようとか抜かして、結局好き勝手動いてるだけじゃねえか。一生けんめい考えちゃいるだろうが。
 だが結果はどうだ? よくなった試しがあったか? 
 オレはちがうね。まわりに合わせるなんて、まっぴらごめん! クソくらえ! 
 自分のために、オレのやり方でやりたいことをする。地球のためじゃない。オレのために。
 それが1番の、何もかもうまくいく方法だ。
 両手を叩く。正面突破だ!
 待ってろみんな、『天界の果実』がいま行くぞ!

 いきなり頭に大きな衝撃が走り、オレは意識を失った。
 ヒツジは出荷された。

「レオンハート。そのヒツジ、うまそうだな」

 見張りのブタはいった。

「アルイテタラ、ツカマエタ」

 頭をずるずる引きづられ、ヒツジは聖母ピラール大聖堂のなかへ姿を消した。