第12輪 フランス人は豚をナポレオンとは呼ばないが、トイレにはローマ皇帝の名前をつける

 早く、楽になりたい
 し、死なせてくれ! 咳で背骨がはがれる!

          ――ガトフォセ

 飼い主が去ったあと。ペットのブタたちは気が抜けたのか、見張りを2匹残して礼拝堂から出ていった。

「仲間が死んだ」

「でも、あいつはしょうがない。ニンゲンの味方をしたんだ」

「バジリコに従えば、ニンゲンを滅ぼしてくれる」

「でも過激すぎる。バジリコを信用していいのか?」

「恩人になんてこというんだ! 俺たちはバジリコがいなかったら、処分されたときの恐怖で、知性のない悪霊になってたんだぞ。恩を返さないやつはニンゲンだ」

「せめて、クズっていって」

「レオンハートはかわいそうだ。あいつの障害は重い」

「それよりパーティしようぜ。3年もがんばって働いたんだ」

「馬鹿、気が早えよ。でもそうだな、バジリコはなかなか休ませてくれない。ちょっとぐらいならいいよな」

「ブヒィィィィィィイ!(いぇぇぇぇぃ!)」

「おいグリム、クララ! ちゃんと見張っとけよ!」

「いっつもぼくばっかり」

「いいじゃない。2匹のほうが落ちつくわ」

 これはチャンスだ。ブタたちははなれたところで、なかよくおしゃべりを始めた。
 こっちに注意してない。しめしめだ。
 オレは、ペパーミントとティーツリーを見た。ラベンダーもなかなかだが、こっちもかなり衰弱してる。きっと、ひどい拷問を受けたにちがいない。

「2輪とも、大丈夫か?」

「…………」

 反応がない。
 いまはほっとこう。
 今度はラベンダーに話しかけてみる。

「おい、ラベンダー……大丈夫か?」

「大丈夫に見える?」

 ドスのきいた声でにらみつけてくる――顔のケガもあって、よけいに怖かった――これはキゲンが最悪なときに使うトーンだ。
 生理痛とか、なんとなく虫のいどころがわるいときとか、ようはいつもの声だな。
 信じられないかもしれないが、こういうとき、ラベンダーとはまともに会話できない。ここから脱出する天才的作戦を話し合おうとしても、ケンカになる――いまは時間が惜しい、一刻も早くバジリコを追わなきゃならない――だから、まずは世間話で、心をケアしてやる必要がある。

「ミンテのことは、残念だったな」

「ふんッ」

 かわいくない女。オレはめげなかった。

「認めたくないよな。自分の師匠が死んだなんて」

「は? なにか勘違いしてない? ミンテはわたしの師匠じゃない」ぽかんとするオレに、続けていう。「育ての親よ。わたしの師匠は『銀の狐』」

「……すまん。もう1回、いってくれ」

「だから、『銀の狐』だってば」

「『銀の狐』⁉︎ あの残虐非道な! アロマ連合のナンバー2だぞ、『真の薫香』の次に偉い。ほんとに『銀の狐』が師匠なのか?」

 オレは理解した。だからこいつ、こんなに性格ねじ曲がってるんだ。

「ミンテが師匠って、だれから聞いたの? どうせネットの情報でしょ。好き勝手書かれてもうウンザリ!」

「すごい奇跡だな。いや、運命か? アロマ連合のトップ2人の弟子たちが、ここにいる」

「それと、ミンテは生きてる」

「そうだな、生きてるって信じたいよな」

「ちがう、ほんとに生きてる! 見たんだから」

「もし生きてるとしたら、あれだけ活躍してた大神霊が、どうして表に出てこない? 【エルサレムの大悲劇】、【百年戦争】、【魔女狩り】、【世界大戦】。どうして人間界に関与してこない?」

(ミンテ。礼名は『征服の草』。ミントの原種の精霊。ミント一族の始祖にして、ペパーミントのおばあさん)

「知らないわよ。自分勝手に生きる花だから。ところで、アンタには失望よ。赤点。わたしがアカデミーの先生なら、退学させる。最悪。なんで捕まってんの? 信じられない」

「口は災いの元だぞ!」

「これが『黄金のリンゴ』さまだったら、かっこよく助けてくれんのに」

「柑橘イジメはやめてもらおうか!」

「あーあ、わたしたちって、いっつもこうよね、最悪」

「うるさい! こっから大逆転が始まるんだ! 見とけよ小娘」

「ウフフ、ぜひとも楽しませてもらいたいものね」この皮肉は、オレの神経を逆なでした。

 ラベンダーは手を顔の前で振ると、お得意の手品でケガをなくした。
 野心的な顔を取りもどすと、お手並み拝見という表情で挑発してきた。
 ストレス! ラベンダーに相談するのはやめた。時間のムダだ。いまは何時だ? イライラする。もう1人で作戦を考えよう!
 集中しろ、集中。……おい、その表情をやめろベンダー! こっから出られないと、おまえも困るんだぞ! オレは自分の香りをたっぷり吸った。
 だんだんと、心が、落ちつきを取りもどす。いろんなアイディアが、オレの頭の中をかけめぐる。
 すると、神経が研ぎすまされたせいか、まぬけな会話が聞こえてきた。

「ねえ、ちょっとグリム。あなた、ひどい匂いよ、泥をあびてきたほうがいいんじゃない?」

「え? でもクララ、きみのほうこそ、体が汚れてるよ。先にあびてきなよ」

 ティーツリーが、力なくたずねる。

「なあライミー、なんで体が汚れたら、泥をあびるんだ? スラングはよくわからん。おまえ、くわしいだろ」

「……いや、わからない…………ライムじゃなくて、ペパーミントですが」

 オレは集中した。考えろ、脱出する方法を。
 クララと呼ばれた女の精霊は、グリムにいった。

「だって、わたしたちは見張ってないといけないでしょ?」

「あいつらはどうせ、ボールから出られない。ぼくが見張っておくから、あびてきなよ」

「でも、そんなのわるいわ」

「きみは女性だ。ガマンしてるの知ってるんだよ。強がっても、ほんとうは、あびたくてたまらないって顔してる」

 耐えろ、耐えろオレさま、集中しろ!

「わかった。じゃあ、すぐもどってくるから。ありがとう」

「ゆっくりあびといで」

 クララがうきうきしながら礼拝堂から出ていったのを見て、もうガマンの限界だった。

「ふはははは! ふっ、や、やっぱり、あびるんじゃないか、泥を! おまえらは泥をあびるのが大好きなんだ、あっふ、っはっはっは!」

 まったく笑わせてくれる。
 グリムの顔は怒りで真っ赤だった。

「お、おまえ、笑ったな! 笑ったな! 差別するな! ブタが泥をあびて、何がいけないんだ⁉︎」

「いや、すまん。気をわるくしたなら、あやまる。シャワーをあびるみたいにいうもんだから、つい。差別したんじゃないんだ。ごめんな」

「だから植物の精霊はきらいなんだ! 自分たちが動物霊より、優れてると思ってる」

 ひらめいた。いいアイディアが降ってきた。

「ほんとにわるかった。どうか愚かなオレを許してくれ。おまえがそこまで傷つくとは、思わなかったんだ。反省してる。どうしたらオレは、自分の罪をつぐなえる?」

 オレは二重の意味をこめて、あやまった。もう1つの意味は何かって? もちろん、利用させてもらうことに対して。

「そこまでいうなら、もういいよ」

「それはよかった。なあ、ちょっと話さないか? オレはオレンジ、愛称はオーレ。好きに呼んでくれ」

「なんだ? ボールからは出してやれないぞ」

 疑わしい視線を向けてくる。ま、最初はみんなこんなもんだ。だが、オレにはヒトと仲良しになる才能がある。ちょっと見てろよ。

「そうじゃない。見たところ、このボールはとても頑丈だし、それにもうすぐ殺されるんだ。だから、世間話でもいいから、残りわずかな人生を楽しみたいのさ」

「ふうん。納得してるんだ?」

「おまえらといっしょさ。どうあがいても、長生きはむずかしい」

「……そうだね」

「グリムはまだ、いってみりゃ新人の精霊だろ? オレは200年以上も生きてるから、精霊界での生き方を、少しはアドバイスしてやれるぞ」

「いらない。知りたいことは、バジリコがぜんぶ教えてくれる。話はおしまいだ」

 グリムはぶっきらぼうにいうと、くるりと向きを変えてはなれていく。遠のくグリムの背中に、オレはいった。

「バジリコは、恋愛の仕方も教えてくれるか? グリム? おまえはクララにほれてるんだろう?」やつは立ち止まる。「おまえはどうも、バジリコを信用してないように見える。それにまわりにも、相談できるやつがいない。オレはもうすぐ死ぬから、相談するならいまだぞ」

 グリムはのしのし歩いてきた。迫力がある。ブラスターをかまえた。ヤバッ、怒らせたみたいだ。「待て、話せばわかる!」オレの顔と同じくらい大きな鼻とブラスターを、ボールに押しつけた。あらい鼻息がシューッと音をたてる。

「だましたら、承知しないぞ‼︎」

 オレたちは身の上話をして、ある程度信頼をきずいた。
 さ、ここからは次のステップ。トイレの話をして、ボールから出してもらう。

(なんの話をしたかの説明がないって? オレはただ、物語を先に進めようとしただけだ。
 おたがいのおかれた状況だったり、スポーツとか食べ物の話だな。クレープを食べたことがないらしく、いつか本場のクレープを食べてみたいといってた。グリムはキノコやどんぐり探しが趣味で、詩を書くことも好きなんだ。人魚界にも、旅行に行きたいらしい。人魚界には、かわいい女の子がいっぱいいるからなといったら、グリムは首を横にふり、泳ぐために行きたいといった。
 だが、人魚界は海のなかに発電所を造っちまって、危ないから、フランスのニースをおすすめしといた。人間界ではまだ、原子力発電所は造られてないから安全だ)

「オーレ、そろそろモテる方法を教えてよ」

「ああ、いいだろう。モテる方法、それはな……」

「それは……?」

 ゴゴゴという擬音が聞こえてきそうなくらい、グリムは真剣な表情だ。オレは笑わないよう努力した。そして、いう。

「トイレだ」

「なに? トイレ? あのトイレ? なんで?」

「おまえ、トイレしたことはあるか?」

「霊がトイレなんてするわけないだろ! 馬鹿にしてるのか? ふざけるな!」

「おい、オレはまじめにいってんだ! もし霊がトイレしないって本気でいってるんだったら、おまえは大馬鹿やろうだ! 道理でクサいと思ったら!」

(ま、実際しないんだけどな)

「おまえ、ぼくのことを、クサいっていったのか⁉︎ いま、クサいっていったな!」

「落ちついて聞け、おい、グリム、落ちつけって――ブラスターをおろせ! 危ないだろ!」

「だって、だだ、だって! ぼ、ぼくは――」

「おまえは霊になって、まだ3年だ。だから、自分の体のことがぜんぜんわかってないんだ。いいか? おまえの体にはいま、3年間分のウンコがたまってる。そのせいで体から、強烈な悪臭が出てるんだ。この匂いじゃ、どれだけがんばっても女は振り向かない」

「そんな。だって、みんながトイレしてるのなんて、見たことない」

「ナイショにされてたのか。もしかして、イジめられてるんじゃないか?」

「……自分でもうすうす、そうじゃないかって、思ってたんだ。でも、どうしてクララも、教えてくれなかったんだろう?」

「馬鹿やろう! トイレの話なんて、女性からいえるわけないだろうが! だから、ほら、さっきも暗にいわれてただろ? 泥をあびてきたほうがいいって」

「あれは、そういう意味だったのか……」

「女性の真意に気づける男こそ、真のモテ男ってもんだ」

「オレンジ先生、ぼく、クララと付き合いたいんです! お願いします、ぼくにトイレの何たるかを教えてください!」

 トイレに興味を持った精霊は、こいつが初めてだ。オレはこのブタのジェントルマンに、トイレという人間界至高の文化を教えてやらねばならない。

 ――ガトフォセ、すまない。時間がかかりそうだ

「もちろんだ。だが、実践編の前にまずは、歴史を学ぶ必要がある。オレはきびしいぞ! ついてこれるか?」

「がんばります!」

 ラベンダーは冷ややかな視線で、オレたちを見ていた。

 オレは講義していた。
 グリムは一生けんめいノートをとっている。

「14世紀にパリで最初のトイレが生まれても、当時は富裕層しか使えず、街もセーヌ川もウンコだらけだったんだ。当時の状況を、シャルル6世は1404年の王令で、こういってる。〝セーヌ川は、泥、汚物、腐敗物、ゴミなどでいっぱいであり、見るだけで恐ろしく、かつ、吐き気をもよおす状態で、人々はこの川の水を飲んだり、体にあびたりして、どのように死や不治の病などから身を守っているのだろうか、もし神の奇跡でないとしたら、まったく驚くべきことである〟」

「先生、質問です。トイレはフランス語で、何と呼ばれてたんでしょうか?」

「16世紀になっても、トイレって言葉自体がフランス語にはなかった。だから〝秘密の部屋〟とか、〝宮殿風の部屋〟って上品に呼ばれていた。何を気取ってるんだろうな? でも当時は、この呼び方が流行りだったんだ。

(ちなみに〝ハリーポッターと秘密の部屋〟という児童書があるが、つまりは、そういうことだ。あれはちょっとしたシャレなんだ――トイレと秘密の部屋をかけた)

 17世紀。そろそろ改善されるだろうと思ったか? いやまったく! あいかわらず街はウンコだらけで、安全に歩くことすらできなかった。ヴェルサイユ宮殿にさえ、1つしか便器がなかったんだから。王令や法律で、いくら家にトイレ設置を呼びかけても、みんな守らない。街中で平気でウンコしてたんだ。この生活に支障をきたすレベルのパリの悪臭に、ついに1人の賢明な市民が立ち上がった。公衆トイレ設置を呼びかける請願書を作成し、政府にうったえたんだが、その意見は採用されなかった。時代が早かったんだろうな。市民は非力だ。ただ、フランス社会の流れにしたがうしかない。

(え? またトイレの話してるって? 講義中だ、私語はつつしめ)

 18世紀。さすがにそろそろきれいになってるだろうと、ふつうは思う。オレだって、そう思った。これで何のアクションもなかったら、フランス人の神経を疑う。パリで最初のトイレが設置されて、4世紀もたってるんだ。ケータイなんか1年でもう新しいのが出るんだから、トイレもさぞハイテクになってることだろう。だが、だいたい予想はついてるな?」

「まさか……そんなことって…………」グリムは、成長しない人間たちを哀れんだ。

「18世紀になっても! パリの悪臭は消えないんだこのやろう‼︎ トイレにしても人々の衛生環境、衛生観念にしても、たいした変化はなかった。幾度となく猛威を振るったペストのおそろしさも忘れて、街はあいかわらずウンコまみれ。というか、積もりに積もってさらに環境汚染が悪化していた。人々は違和感を感じても、これがあたりまえだと思って毎日生きていた。当時をパラティーヌ女王は、次のようにいってる。〝パリは恐ろしい。臭い、とても暑いところだ。街路は堪えがたい悪臭に満ちている。極度の暑さは多くの肉や魚を腐らせる。さらに加えて、大勢の人々が街路で小便をする。これが吐き気をもよおすような臭気を引き起こしている。これには打つべき手がない〟」

「うへぇえぇえ、信じられない」

「だがほんとだ。そして19世紀! ついに、ついに1841年、歴史に名を残す公衆トイレ、ヴェスパジェンヌが登場! これこそ真のフランス革命! 地球上のありとあらゆる不潔なものを集めても、かなわないといわれる大気汚染都市・魔界パリに、光をもたらした。パリ初の本格的な公衆トイレ、ヴェスパジェンヌ(男性用)は、パリ市内に400基以上も作られ、見た目はともかく、多くの市民から賞賛された。
 ちなみに、ヴェスパジェンヌの名前は、ローマ帝国の皇帝ヴェスパジアヌスが由来だ。フランス人は、ブタをナポレオンと呼んだらいけない法律を作るくせに、トイレにはローマ皇帝の名前をつけるんだから、おもしろいよな」

「は~、なるほど。勉強がこんなに楽しいなんて、思いませんでした。とってもためになります」

「それでだ、グリムくん。きみの3年分の欲求を満たすには、ふつうのトイレでは小さすぎる。この革新的トイレ、ヴェスパジェンヌを使うことが妥当だと考えられる」

「……つまり、何がいいたい?」

 グリムと、目と目があう。場の空気が張りつめたように感じる。オレは勇気を振りしぼった。

「次は、実践編だ。オレをこのボールから出してくれ。そうすれば、極上の快感へと案内してやれる」

 グリムはのけぞり、かわいた笑い声をあげた。「おまえ、やっぱり、ぼくのこと馬鹿だと思ってるだろ。霊がウンコなんてするわけないんだから」

 怒りがふくまれた声。事実、そのとおりだったがオレはごまかした。だまして脱出する作戦から、良心にうったえる作戦に方針転換する。

「ちがう! おまえらのリーダーが仲間を撃ったとき、イヤそうな顔してた。なぜだ?」

「ミヒャエルは、ともだちだったんだ。生きてた頃からずっと」

「グリム。きみは、やさしい心を持ってる。復讐は似合わない。たのむ、ここから出してくれ」

「あっはっはっはっは」グリムの笑い声には、疲れが感じられた。目を細め、やるせなくほほえんだ。「もう、疲れたよ。ドイツ人に復讐しようとしたせいで、みんなヒトが変わってしまったし、ともだちも失っちゃった。世界なんて変えなくていい。ぼくはただ、仲間とまた出会えただけで、うれしかったのに」

 グリムは、かなしそうだった。

「グリム、オレもだ。ともだちがいる。助けたいともだちが。お願いだ、手を貸してくれ」

「いいよ。復讐はもう……疲れた。その代わり条件がある」

「なんだ?」

「オーレ、きみはアロマ連合のナイトだろう? ぼくとクララを見逃してくれ。バジリコは動物界とつながりを持ってる。だから、動物界からも保護してくれ」

「お安いごようだ」

 もどってきたリーダーたちは、おどろいた。
 ちょうどグリムがブラスターで、ボールを破壊してたからだ。
 そこには、自由を取りもどした4輪の花がいた。