第1輪 良きトイレと髪の毛は、人生を満喫する上で欠かせない
トイレがだめなら何もかもだめ
――オレンジ
フランスといえばなにをおもう?
芸術の都パリだって? マジでいってるのか?
あんなとこはゴミのはきだめだ。悪臭の都のまちがいだろう。
空気はきたないし人間がおおくてゲロが出る。
フランスといえばオレが今いるここ。
美食の街リヨン。
世界でいちばんうまいもんが食えるし、シルクだって最高だ。ほんとうに女性の肌みたいなさわり心地で、ここ以上によくできたシルクを見たことがない。おまけにガトフォセ香料店もあるしな。ま、こっちに関しちゃこれからだが。
しかし、なにもかもがすばらしいと思えるリヨンにも欠点があった。
それは……トイレの数はパリに負けてるということ。
ただいま世界大戦中。世界が今のぞんでること。それは平和でもなく、平等の権利や投票権、独立でもなく、公衆トイレだった――と当時を見ていたオレはおもうね――人間界におけるトイレ事情というのはそれぐらい切実だった。
若いやつはみんな兵士になっちまったから、街を掃除するやつがいないんだ。
(特にパリはひどい。街中がウンコまみれだ。観光に来られてもウンコ以外なにも案内できない。これでも公衆トイレの数だって増え、ちっとばかしマシになったんだ。18世紀の頃は1歩だってまともに外を歩けなかった。まあ、リヨンも似たようなもんだが)
政府というのは国にとって頭脳だが、フランスの首都にあるのはケツだ。ウンコばっかり。パリのあの汚さには打つ手がない。
どんな物語の悪役でも、糞尿で発酵したセーヌ川にくらべたら、宝石のようにきれいな心を持ってるってもんだ。
敬愛するナポ公はどうやら、辞書に不可能という言葉だけじゃなく、衛生という言葉ものせ忘れちまったらしい。
(これぐらいいわせてくれ。この大戦でどれだけ自然が犠牲になったとおもってるんだ)
ん? ああ、自己紹介がまだだったな。
オレさまはオレンジ。植物界の大スターだ。
植物界の大スターであるオレさまと会話できてうれしいか?
そりゃそうだろう。人間界でも超人気だからな。
ジャパンには会いに行けるアイドルという言葉があるが、そりゃオレのためにあるようなもんだ。
スーパーに行きゃ会えるんだからな。
近所でなんでも手に入るこの時代に感謝だな。
なんでこうやって本を読んでるおまえと会話できるんだって? 人間にしちゃかしこいな。ほめてやろう。
それはな、オレさまが霊だからだ。霊は次元も時間も超える。オレをそこらへんの三流キャラクター共といっしょにするな。
この地球には、いろんな生き物が暮らしてる。人間みたいに目に見えるやつらもいれば、オレたち精霊みたいに見えないのもいる。
人間には人間の、植物には植物の、動物には動物の。それぞれの世界があるんだ。
そしてオレの所属する植物界はリーダー的存在、つまり、諸君らにとってのアメリカ合衆国ってわけだ。
西暦1918年。世界中を巻きこんだ人間同士の派手なケンカのせいで、精霊界は超繁忙期。
人間が生み出した憎しみや怨みのせいで、悪霊とか悪魔がいっぱい出てきたんだ。世界中の人間界で、休むヒマなく来る日も来る日も浄化作業。まったく、人間には愛想が尽きるね。
まあ、オレはそこまでいそがしいわけでもない。
いまだって、昼下がりにこうやってガトフォセ家のキッチンで、おいしいパンペルデュを作るぐらいの余裕はある。
(つまり、デザートを作りながらトイレの話をしてたわけだ)
アロマセラピーって言葉は知ってるな?
人間をリラックスさせたり、病気から身を守るためのあれだ。それに使う精油を人間界に普及させるのがオレの仕事。だからフランスにいるんだ。
精霊としては、最高の仕事だな。もちろん皮肉だが。
フライパンからいい香りがしてきた。最高のパンペルデュを皿に乗っけたとき、やつは来た。
ラベンダーだ。
キッチンのとびらが勢いよく開かれた。
「う~ん、いい匂いね」
白いワンピース姿の子供がいった。オレの同僚のラベンダーだ。ハウスメイトでもあり、ガトフォセの家にいっしょに暮らしてる。かわいいが、性格は最悪。
「やらんぞ」
「欲しいなんていってないけど」
「なんの用だ?」
「ガトフォセが呼んでるよ。話したいことがあるんだって」
「わかった、あとでいく」
「ううん、すぐに来てほしいって。通りすがりの悪霊に食べられないように、それはわたしがみはっといてあげる」
「……おまえがいちばんの悪霊だ」
「ひっどい、レディになんてことを!」
「ただ食べたいだけだろ。それにガキじゃねえか」
「姿が中学生なだけでしょ、そういうアンタだってガキじゃない」
オレたちは精霊だ。人間みたいに肉体を持ってない。だからどんな姿にもなれる。人間の姿ってのは便利なんだ。それをよくおもわないやつもいるが。
そして、ラベンダーの言葉にキレたオレのひとことにより、第2次世界大戦は幕をあけた。
(第2次世界大戦? おいおい、そんなもの起こるわけないだろ)
「うるせーババア!」
ガシャン、ガシャン、パリン、グシャ、ビシッ、カァァァンンン。
物かげにかくれたオレに、頭に血がのぼった小娘は、キッチンにあるフライパンから皿、マグ、あるものをすべて投げてきた。
ガキっていわれるのはダイキライだ。大人になれないことをからかわれた気がして。
「覚えときなさい、年のことを女性にいうのは世界共通で失礼よ! 次元が変わってもね!」
「おまえが食おうとしたからだろ!」
頭の上を、何かがかすめた。フロアに落ちたのは包丁だった。オレたちは霊だが、念力で物を投げるぐらいのことはできる。
「食べようとなんかしてない、ほんとよ!」
「そういって食べたこと、あったじゃないか! おい、やめろ、あぶなっ」
「……女の子に、甘いものはガマンできないわ」
開きなおりやがった。信じられない。
「おまえに食わせてやれるのは、パリ砲ぐらいだ」
(パリ砲。今年の3月に登場したドイツ軍の秘密兵器。射程距離は120キロ・メートルってんだからおどろきだよな。だが命中率はイマイチだ。精霊界のベースボールでは、コントロールの悪い選手をパリ砲といって笑うんだ)
ガシャガシャガシャガシャガシャ。
ラベンダーは怒りを爆発させた。ナイフとフォークの雨が降ってくる。ドイツ人もビックリの猛攻。これがフランス魂か。するどい金属音がオレの耳をつんざく。
ふいに音がやんだ。
物かげから顔を出すと、キッチンの入り口に37歳のムッシュが立っていた。となりのラベンダーは痛そうに頭をおさえてる。ゲンコツをくらったらしい。
ガトフォセだ。ガトフォセ香料店の社長で、霊能力を持つ人間。つまり、オレたちが視える。人間界における唯一の協力者だ。
ガトフォセはいま、腕を組んで怒っていた。メガネの奥の目のなかで、炎が燃えている。
「何やってるんだ、2輪共! ああ、ラベンダー、オレンジ、どうしておまえたちはいつもそうなんだ。何があったか、弁解してみなさい!」
「オレのせいじゃないことはたしかだ」
「オレンジがわたしにババアっていったんだよ」
「おまえだってガキっていっただろ、おいガトフォセ、これ投げたの全部ラベンダーだからな」
「アンタが避けなければ、こんなに投げなかったわよ!」
「サイテーだな。イエスだって、おまえみたいな女に出会ったら、反射でパンチ食らわすね」
オレは変身してキリスト教のイエスみたいなかっこうになると、その場でシャドーボクシングしてラベンダーをからかった。
「枯れちまえ!」
ラベンダーがふたたびナイフを投げてきたが、イエスは修行のボクシングで鍛えた(であろう)反射神経でナイフをかわした。しかし、ナイフはかわせても天罰まではかわせなかった。
ゴツン。
ゴツン。
重たいゲンコツの音がラベンダーとオレの頭にひびいた。
ガトフォセが大声を出す。
「おまえたちが人間だったら、何も食べさせないし外出禁止にできるのに! イライラする。2輪で全部かたづけるまで、口きかないからな」
そういうとガトフォセは、キッチンから去っていった。
オレとラベンダーが、食器をすべてかたづけてリビングへ行くと、ガトフォセはお気に入りの赤い万年筆で手紙をかいていた。オレたちに気づくと、顔をあげた。
「ずいぶんと、おそかったな」
もちろん食器をかたづけてる最中も、オレとラベンダーは言いあってたからな。かたづけるどころか、殴りあいのケンカになり、経済状況があまりかんばしくないガトフォセ家の皿がさらに割れ、当分のあいだガトフォセ家では、スープ料理を食べるのをガマンしなければいけなくなった頃、ようやくオレたちは気づいた。このままではマズい。
そこで勝負をしたんだ。より多くの食器をかたづけたほうが、相手のいうことを何でも1つ聞く。
結果は……勝ちをゆずってやることにした。男だからな。女には優しくしなきゃいけない。ベンダー(売春婦)め。
ラベンダーが勝ち誇ったように、オレの肩に腕をまわしてきた。あわい紫色の髪が毒みたいに、首にかかる。
「お皿を割らないように、仲良くかたしてたんだよね」
「ああ、そうだな」
(おぼえてろよ!)
ガトフォセがいった。
「すわってくれ。2輪に話すことがあるんだ」
ガトフォセは疲れているようだった。しわくちゃの白いシャツがそう感じさせる。
「なんだなんだ、辛気くさい顔して。そんな顔してたら、また髪を燃やされちまうぞ」
オレはおどけて見せたが、ガトフォセはあきらかにムッとしていた。
「また叩かれたいか?」
ガトフォセはこの4年で、急激にふけた。理由はいくつかある。世界大戦が始まったから。あとは、ラベンダーに髪を燃やされたから。これが1番の原因だな。昔はもうちょっと、ジョークのわかるムッシュだった。
いわれるままにすわったオレたちは、マイペースだった。ラベンダーはコーヒーをすすり、オレは時間がたって水分をうしなったパンペルデュを、フォークでつついていた。
「オレンジ、ラベンダー、2輪に重大な話がある」
ガトフォセが重たい空気をまとって、かしこまってそんなことをいうから、オレたちはふざけた。
「なんだ? 世界大戦が始まったいま、何をいわれてもおどろかないぞ。それとも霊を徴兵しようってんなら別だが」
「アッハハ、そのジョーク超ウケる! 植物も動物も、おまえらの奴隷じゃねえよ!」
ラベンダーは自虐的に笑った。
「じつは、会社が倒産することになった」
このひとことに、オレたちは黙るしかなかった。さっきまでのおちゃらけた態度はどこかへ消えていた。ガトフォセは続ける。
「だから、もう精油を売ることはできない。おまえたちにもう、協力できないんだ。悪いな」
そういうとガトフォセは、席を立とうとした。
「おい、待て、理由を教えてくれ」
オレはあせった。それは困る。オレとラベンダーには、アロマ連合から与えられたミッションがある。精油計画だ。人間界に精油を普及させるというきわめて重要な役割が。
植物から作られる油、精油。
香りをかぐだけで幸せになれる、魔法の液体。
これを使って人間の心をゆたかにして、精神的に余裕を持たせる試み。
戦争も、伐採も、病気も、人間の心によゆうがないから起こる。その結果、搾取されるのはいつも自然だ。だから、精霊界――おっと、言葉をまちがえた――少なくとも植物界は人間たちを支援しようとしてるんだ。
それなのに、会社が倒産だって? 冗談キツいぜ。
「理由はいくつもある。今回の大戦でわが社の精油工場がつぶされたこと。それに、新しく契約した加工工場が、ストライキを起こしてる。賃金を上げろとうるさい。みんな、その日のパンを買う金にも困ってるんだ。賃金なんか上げられない」
やつれた顔でいうガトフォセ。疲れきった友だちの姿に、オレは同情した。
「ああ、わたしもよくストライキ起こすよ。どれだけイジめられても、イジメっ子を支援するアロマ連合にね」
ラベンダーはよけいなことしかいわない。
この女、悪魔か。
ガトフォセはいった。
「しばらくは、入荷予定の精油を売って食いつないでいくしかないと、社員たちと話しあったんだが、いつまで待っても来ない。それで業者に連絡してみたら、そんなものない、盗まれた! といわれ電話を切られた。最悪の治安だ!」
「まあ落ちつけよ、な?」
「落ちつけだって? おまえたちは霊だから気にしないだろうが、人間は食べ物が食べられなかったら死ぬんだ」
「なんとか方法を考えよう」
「方法だって? いいだろう。アイディアは?」
しかし何も思いうかばなかった。
「精油を輸入しようにも、農場はドイツに破壊されるし、香料を輸出しようにも、買い手がいない。踏んだり蹴ったりだ。香料なんて娯楽品、いったい誰が買う⁉︎」
「香りじゃ腹は満たされないからな。だが、軍には買ってもらえそうじゃないか? 兵士は衛生を求めてる」
「もちろん提案はしたさ。だが、そんなものより赤ワインはないかと訊かれたよ。うちもワイン農家になるべきだった」
(フランス軍はいろいろと娯楽品を買っていたが、なかでもワインが一番人気だったんだ。オレはワインよりジンのほうが好きだが。ここだけの話、最近は日本酒にハマってる。ともだちにはナイショだ)
「食べ物にはかなわないな。そういやオレも食べ物だった」
「戦争が始まってから、うちは赤字だ。支払いだって待ってもらえない。来月末までに払えなかったら倒産だ」
ガトフォセはストレスと悩みで泣きそうだった。
「いまだけの辛抱だ。戦争が終われば、みんな香水や娯楽を求めるさ」
「いつ終わるんだ? もう4年もやってる! なあ、オレンジ、ぼくに教えてくれ。精霊だから知ってるだろう? いったいいつ、このひどい戦争は終わるんだ⁉︎」
ガトフォセは大声を出した。頭のなかで何かが切れたって感じだ。興奮している。
「そんなことオレが知るわけないだろう、おまえたち人間が始めたことだ」
「ぼくは一生けんめい働いているのに、おまえたちときたら、ろくに働きもせず遊んでばかり。おまえはいつもナンパしてるし、ラベンダーはそもそも店にいない。ぼくの仕事を手伝ってくれたことがあるか?」
「本当にそう思ってるのか? 契約できそうな農場や工場を見つけたり、ラベンダーの栽培の仕方、蒸留法をそいつから聞き出して教えたのは誰だったか、忘れたとはいわせないぞ。それに、悪霊からこのリヨンを守ってるのはオレだ。だからこの地域は安全なんだ!」
「だったらぼくもいわせてもらうぞ! 見ろこの頭を。誰のせいでこんな頭になったと思う? オレンジ、ラベンダー、君たちはぼくに大きな借りがあるんじゃないか?」
う、これには反論できない。
「この頭になってから、妻と言いあいになると、いつもバカにされるようになった。昨日なんていわれたか教えようか? あなたが父で、娘は後悔するでしょうだ!」
(3歳の娘がいるんだ。ちょうどラベンダーを召喚した日に生まれた。ガトフォセとちがってかわいいが、ガンコさと霊能力の高さを受け継いでいる)
「髪を燃やしたのはラベンダーだろ」
ラベンダーは、自分のつめを見ながらひとこと。
「ニンゲンに仕返ししただけよ」
「オレンジ、おまえが魔法陣にらくがきしたからだろう! ぼくが精油事業に本気を出してるのは、フランスを清潔にしたいからじゃない! 自分の髪を取りもどしたいから――うっゲホ」
「ガトフォセ!」
ガトフォセはいきなり血を吐くと、イスから床に倒れた。
「おい、大丈夫か⁉︎」
ひどく咳きこんでいる。なかなか止まらない。咳きが出るたびに血を吐いている。様子がおかしい。
「おい、ガトフォセ、いま妻を呼んでくるからな!」
あわてたオレとちがい、ラベンダーはガトフォセが倒れても、すわったままスマホをいじっていた。
(なんで精霊がスマホなんていじってるかって? おいおい、そりゃ逆だ。どうして人間がスマホを使えてると思う? オレたちがアイディアを落として、普及させたからだ。非物質界ではスマホは紀元前からある)