第3輪 旧友が旧友を呼ぶ
オレンジ、その話はほんとうか?
冥界はそんなにたくさんの人間を、受け入れられない
各世界は何を考えてるんだ?
――ペパーミント
オレが親友をつれて、集合場所のガトフォセ家のリビングへ入ると、すでにソファにラベンダーがすわっていた。
となりには、あさ黒い肌の女性がすわっていた。民族衣装を着ている。
「オレンジ、急用を思い出した。帰らなきゃ」
「ペパー、どうした?」
「彼女がいるなんて聞いてない」
「ライミー! なんでおまえがここにいるんだ⁉︎」
民族風の女性は、キゲンが悪そうだった。
(ライミー。イギリス人への差別用語。意味はライムやろう)
子ども姿だったペパーミントは、瞬時にスーツ姿の大人へと変身した。オレ以外の精霊に会うときは、いつもこの姿になる。建前を大切にしたいのか、社交的に振る舞いたいのか。
「紹介しよう友よ。彼女がいつも話してるティーツリーだ」
ペパーミントは上品なキングス・イングリッシュでそういった。
「ペパーミントじゃない!」ラベンダーがいった。「まさか、オレンジがあなたをつれてくるなんて。そういえばペパー、あなたもロンドンに留学してたものね。ちょっと見ない間に、大きくなったわねえ」
オレはおどろいた。
「おまえたち、知りあいなのか?」
「ぼくのおばさんだよ」
「なに⁉︎」
ちょっとマズいことになった。ペパーミントとティーツリーは相性が最悪だ。昔ちょっとした問題があって、いまも最悪の仲だ。まさか、ラベンダーがティーツリーとつながっていたなんて。
それに、ペパーミントのおばさんって、ラベンダーだったのか!
「長い間おまえとつるんでるが、そんな話、初めて聞いたぞ!」
「いいたくなかったんだ」
ペパーミントは居心地が悪そうだった。胃を痛そうに押さえてる。
気持ちはわからなくもない。あいつは常識がないからな。
「ラベンダー、ライムやろうが来るなんて聞いてない、アタシは帰らせてもらう!」
「ライムじゃなくて、ペパーミントですが」
ペパーミントは小さな声で、文句をいった。
「まってティー、協力してくれるっていったでしょ、時間がないの。早いとこスペイン風邪を浄化しないと、オーストラリアにも上陸するわよ!」
ラベンダーが、出て行こうとするティーツリーを引き止める。
「ふん、アタシはごめんだね、こんなクソやろうといっしょにいるなんて。枯れたほうがマシだ。それに、オーストラリアに来るなら来いってんだ、アタシが追い返してやる!」
親友がボロクソいわれるのは、あまりにもおもしろくない。オレはだまっていられなかった。
「オーストラリアの精霊なんて信用できるのか? 精霊界の流刑の地だ。あそこには凶悪な精霊、『ガソリンツリー』がいる。ラベンダー、こいつはオーストラリアの管理者の職を、放棄したいだけだ。オーストラリアを離れる口実を得て、『ガソリンツリー』を復活させようとしてるんだ。信用できない」
ティーツリーの顔は怒りで真っ赤だった。もうすぐ泣きそうだ。
「そんなことするもんか! そもそも、おまえたちイングランドの精霊が――」
「だまれェェェェェェい!」
ラベンダーがさけんだ。
「みんな聞いて、ティーもペパーも、そこの柑橘も、わたしの大切な仲間よ。おたがい事情はある。でも、ここはわたしにめんじて、いまだけは目をつむって。おねがい」
ペパーミントとティーツリーの顔に、不満の文字が書いてあったが、2人はしぶしぶうなずいた。
オレはガマンできなくて、つい、いってしまった。場の空気がぜったい悪くなると、わかっていたのに。
「フランスもUKもオーストラリアも、人間界だと連合国側だ。仲良くしようぜ」
花の精霊が4輪もいるのに、いやな匂いが流れた。
オレは笑ってごまかした。
「ロンドナーだから、いっちゃうんだよな」
「だまれ。わたしはリヨネだ。ぜんぜんおもしろくない」
ラベンダーは、静かにそういった。
(ロンドナーってのは、ロンドンっ子のこと。オレとペパーのことだな。リヨネは、ラベンダーみたいなリヨンっ子のこと。ティーツリーはなんていうんだろうな?)
「ちょっと待って、まさかとは思うけど、この人数でスペイン風邪を倒すつもりじゃないよね?」
頭の草かんむりをゆらしながら、ペパーミントはいった。
「オレはラベンダーが、もっといっぱい連れてくると思ったんだ」
「数が多いと、それだけ連合にバレやすくなる。ほんとうに信頼できる仲間しか呼べなかったの。それに、仲間をさがしてる時間もないでしょ! そういうアンタこそ、もっと連れてこれたんじゃないの?」
ラベンダーが言い返す。
「ノージンジャー、世界大戦でみんな忙しいし、連合にはむかう物好きなんて、そうそういない!」
「やくたたずのキノコ!」
「オレンジだ、パセリ女!」
(ノージンジャー。しょうがないを意味するメジャーなスラング。花同士の会話で、よく好んで使われる。アロマ連合の古いマスターで、ジンジャーって精霊がいるんだが、そいつが広めたらしい。オレもこれから先、長い人生を送ることを考えると、いまのうちにオレさま専用のスラングを発明しておかないとな。ジンジャーめ、やつはうまいことやった)
ペパーミントが、オレとラベンダーの間に入った。
「わかったわかった、もういい。それで、どうするんだ? スペイン風邪の居場所はわかってるのか?」
「オレたちは、アロマ連合の支援をあてにできない。だから、おまえを呼んだんだ」
「オーケー、冥界が全面バックアップしよう。スペイン風邪のせいで人間が死にすぎても、対応に困る」
ペパーミントはあの冥界の王、ハーデスの孫なんだ。つまり、冥界のプリンス。おばあさんが植物界の出身だから、アロマ連合のナイトの称号も持っている。植物界と冥界の重要なパイプ役だ。
ペパーミントはエアリスを操作して、数分の間、誰かとメッセージをかわしていた。
「いま、冥府の分析官が調べてくれた。スペイン風邪はアメリカにいる。デトロイトだ」
オレとラベンダー、ペパーミント、ティーツリーの4人は、北大西洋の上空を飛んでいた。冥界の所有するUFOに乗って。
時間は午後の2時。デトロイトとリヨンの時差は6時間だから、ガトフォセが倒れた時間とほぼいっしょだ。
ペパーミントは大人の姿で、UFOを操縦していた。スーツ姿で、頭には草かんむりをのっけている。
「そこでオレさまの登場ってわけだ。敵の軍の数と地理の情報を、スマホでゲットしたオレは、ナポレオンに教えてやったんだ。こうしてナポレオンはグランド・アルメ(大陸軍)をひきいて、アウステルリッツの三帝会戦に勝利した」
「かんたんにいうと、天気予報を調べて、かさ持ってっただけでしょ」
ラベンダーが、オレの武勇伝にどろをぬってきた。
「なんだと? じゃあおまえは、いったいどんな活躍をしたっていうんだ? え? ちょっと教えてみろ」
「【ミロのヴィーナス】の両腕をへし折った」
「……おまえにはかなわないな」
「ラベンダー、あれ、おまえか⁉︎」
ティーツリーがさけんだ。
「だって、センスなかったんだもん。誰にもいわないで」
「いや、それ、やっちゃだめ」
「いいでしょ、ニンゲンだってよろこんでる!」
「そういう問題じゃない」
ティーツリーはマジメだった。マジメなやつがダイキライなオレは、ラベンダーに根をかした。
「ふん、オーストラリアにずっと引きこもってるから、ラベンダーの武勇伝がうらやましいんだろ」
「そんなわけあるか!」
「ほう。じゃあ、おまえはどんな武勇伝を持ってるんだ?」
「オレは初めてティーツリーに会ったんだ。どんな精霊かわからない。ペパーの話を聞いてると、印象はよくないな」
ラベンダーは怒った。
「彼女は最強のカビ殺しよ。掃除がうまいんだから」
「アッハハハ、それはすごいな、尊敬するぜ!」
オレは大笑いした。
「ラベンダー、フォローになってないぞ」
ティーツリーはいじけた。
ペパーミントが、やれやれという顔をする。
「ねえ君たち、状況わかってる? もうデトロイトの上空に入ったぞ」
精霊が集まると、こんな感じでおたがいの武勇伝を語りあうのが、こっちの文化なんだ。
英語のあいさつの、How're you? に似ている。
ただ相手の状態を知るだけじゃなく、根掘り葉掘りの探りあいも始まるため、きらうやつも多い。
「いたぞ、スパフだ」
ペパーミントの言葉に緊張が走る。
オレたちはスペイン風邪を、スパフと呼ぶことにした。スペイン風邪だと呼びにくいし、スペイン人がこの本を読んだとき、かわいそうだからな。
操縦席のエアリスから、無数の鳥の羽ばたきが聞こえてきた。大群だ。赤い鳥の霊が、都市の真ん中で竜巻のようにぐるぐる飛んでいた。
「おそらく、あの中心に大元の霊がいるはずだ」オレはいった。
「作戦は?」ラベンダーが聞いてくる。「相手はウイルスよ。UFOのビームなんか効かないわ」
「いいか、ここには植物界が誇る花の精霊が4輪もいる。作戦はこうだ、全身全霊の香りをまとって竜巻に突入。30秒後に中心で、大人になって、それぞれの礼名詠唱をスパフ本体にぶちこむ」
(精霊は何にでも変身できるが、自分の大人の姿になるのは、ちょっとワケがちがう。なぜなら、大人の姿になることで、精霊本来の力が発揮できるからだ。だから、きびしい修練がひつようなんだ。大人の姿になれて初めて、1人前の精霊と認められる。もちろん、オレさまもなれる)
「それは、作戦がないのといっしょじゃないか。自殺行為だ」
オレはペパーミントを無視した。
「おいライミー、おまえ、こわいんだろう?」
ティーツリーがいじわるに笑い、むっとしたペパーミントは、いやな匂いを出した。
オレはボタンを押してハッチをあけると、カッコよく決める。フランスの画家、エドガー・ドガの描いた【舞台の踊り子】みたいにな。生きるか死ぬかの戦いだ。
「雑草ども、ぜったいに引っこ抜かれんじゃねェぞ、根性見せろ!」
(ちなみにオレは、このバレリーヌを知ってる。美人ではないが、愛らしい小娘だった。苦労しながら、それなりにしあわせな生活を送っていたよ。変身のレパートリーにも加えてる。まあ、あんまりオレの過去を話してもつまらないだろうから、物語を先に進めよう)
「そこのUFO、何してる!」
いきなり頭のなかに響いた大音量のテレパシーに、おどろいたオレは、ひらいたハッチから空へ落ちた。
「うぁっ」
「オレンジ!」
ラベンダーが手をのばしてくれたが、届かず、オレは空中へ放りだされた。
「うぁぁぁぁ」
「ペパー、ティー、あなたたちはここにいて。わたしはオレンジを助けにいってくる」
ペパーミントは青ざめた。恐ろしい部族と2人きり。フランス青ざめコンテストがあれば、あいつはまちがいなく優勝だろう。
「ぼくが助けにいく」
「わたしはUFOは操縦できない、なんとか時間をかせいで」
UFOが空に出現した。3つもある。どうやら見えないように、姿を消していたらしい。
精霊のUFOは宇宙人のとちがって、地球人には見えない。次元がちがうからだ。もしこれを読んでる君が霊能力者だったら、ひょっとしたら、見えるかもな。
ってそんなこと説明してる場合じゃない、オレは落ちてる!
いっぽうその頃、ペパーミントとティーツリーの間に、気まずい匂いが流れていた。
「こちらアロマ連合。貴艦につぐ。ここは大スペイン風邪が存在する重度危険領域である。即刻退避するように」
「ぼくたちを気づかってくれるなんて、連合はやさしいね」
「いや、疫病を利用したいだけだろ」
「わかってる、皮肉だよ!」
「どうするんだ? あの2人をおいてけない」
「2人じゃない、2輪だ。ニンゲンみたいに数えるな。さて……どうしよう?」
アロマ連合のUFOが、さらにテレパシーを送ってくる。
「あと3秒数える。3秒以内に立ち去らない場合、不審行為とみなし、攻撃を開始する」
「くそ、どうすればいい、精霊界にはボブおじさんはいないんだ。あ、ぼくのおじいさんはハーデスだ」
「おまえのいってることが、ときどきわからないんだが、それ、どういう意味だ?」
「ああ、UK(イギリス)では有名なジョークなんだけど――」「3、2、1」「――説明してる暇はない!」
ビシャァァァァァァン。
UFOは墜落した。
第2輪 友情は時を超え復活する
ちくしょう、イングランドめ、許さねえからな!
――ラベンダー 15世紀にて
オレとラベンダーは隔離病棟にいた。
病室はとにかくうるさかった。いまは9月だから、ついセミが鳴いてるんじゃないかと勘違いしそうになる。だが残念なことに、そんな風情のあるものじゃなかった。患者たちが咳をしているんだ。
(セミが鳴くのは、かわいいメスを呼ぶため。つまり、ナンパだ。この病室も、そんな健康的なエネルギーで満ちていたなら、もう少し居心地が良かったかもしれない。まあ、人間同士の恋愛なんてオレには興味ないね。アリとアリが結婚して、おめでとう! って感動するやつはいないだろ?)
ガトフォセは、他の患者たちと同じようにベッドに横たわり、ずっと咳をしていた。見ているこっちが辛くなる。鼻や耳から流れた血が、シーツに赤い染みを作っていた。
「頭蓋骨が割れそうだ、ぅうッ!」
「なあ、おまえ、まだ37歳じゃないか。人生これからだぞ」
「……」
ガトフォセには、オレの声は聞こえていないようだった。霊感が弱くなっている。
しかし、オレはかまわず話し続けた。
「マノンはどうするんだ? 髪の毛がないことなんかどうでもいい、おまえがいないことのほうが問題だぞ!」
「オレンジ、ラベンダー! あっ、はっ、香りがするのに、見えないよッゴホ!」
ラベンダーが、壁によりかかりながらいった。
「ムダよ、ガトフォセはもうおしまいだわ。スペイン風邪に感染したんだから」
「ここにはオレと、おまえがいる。2人でヒーリングすれば大丈夫だ」
オレとラベンダーはヒーリングを始めた。ガトフォセの胸に手を当てて、エネルギーを送った。
オレの活性化エネルギーと、ラベンダーの癒しのエネルギーがガトフォセの体内をめぐったが、効果はあまりなかった。ガトフォセの自然治癒力がちょっと上がっただけで、ウイルスはビクともしなかった。
オレはあきらめないでヒーリングし続けたが、ラベンダーは手をはずした。
「これ以上は意味ないわ」
「なぜだ、どうして撃退できない?」
「わたしが見たかぎり、これはふつうのウイルスじゃない。誰かが手を加え、進化させたものよ。くやしいけど、わたしでも浄化できない」
「そんなことがわかるのか?」
「ええ。ニンゲンもウイルスも、ずっと観察してきたからね。わたしの見立てでは、運がよくて、あと48時間でガトフォセは死ぬ」
(実際、なぜかやつはわかる。オレが冷蔵庫に入ってたやつのバウムクーヘンを勝手に食べたのだって、証拠もないのにわかるんだ。女の直感は恐ろしい)
「進化させたって、いったい誰がなんのために?」
「さあ。ドラマや映画だと、テロリストや政府が犯人だけどね」
オレは目をとじた。
ガトフォセ。おまえは人間のくせに、なかなかひろい世界観を持っている。
思い出のなかに、オレとガトフォセはいた。
「リヨンへおかえり。戦地はどうだった?」
「ぼくが思うに、この世には悪も正義もない。ただ、人間がいるだけ。人間が勝手にルールを作って、えらそうに誰かを裁いているだけ。所有なんかできないのに、犬みたいにナワバリを作って、俺たちの領土だってさけんでる。おもしろいよね。自分のペットが人にほえたら怒るけど、ぼくたちも同じことをしてたんだ」
「ああ、そうだ」
「オレンジ、ああ、君が理解できたよ。ぼくたちは家賃をはらってるけど、国は地球に家賃をはらってない。何も還元していない」
「おっしゃるとおり。それで、兵士になった感想は?」
「オオカミには天罰なんか当たらないだろ。だから人を殺したって、きっと天罰なんか当たらない。兵士になったとき、そう思わないとやってられなかった。たまに思うんだけど、人間はむかつくね」
現実のラベンダーがいった。
「また新しい霊能力者を探さないとね」
「いや、精油計画にガトフォセは欠かせない。こいつじゃないとダメだ」
「オレンジ、彼はもう死ぬ。救う方法はない」
「いや、1つだけある」
「?」
「スペイン風邪の霊を倒す。それしかない」
オレはエアリスで、ローブをまとった黒髪の青年と会話していた。オレの師匠の『真の薫香』。こんな姿だが、1万年以上も生きてるジジイだ。アロマ連合で1番えらい。
(エアリスってのは、空中に表示される透明なディスプレイのこと。自分の意思でひらいたりとじたりできるため、ケータイとちがって持ち運ぶ必要がない)
「陛下、緊急事態です。あなたの助けが必要です」
画面のなかの青年は答えた。
「社交辞令はよせ。わしとおぬしはそんな関係ではない。用件はなんだ?」
「ジジイ、大変だ! ガトフォセがスペイン風邪にかかった。一刻も早く、スペイン風邪の霊を倒す必要がある。至急、衛生班を編成してくれ」
「それはできん」
「なぜだ? 人間がたくさん死ぬぞ」
「そのとおりだが、植物界はスペイン風邪に関与しないことになった。これを見なさい」
エアリスに、各国の人口のグラフが表示された。スペイン風邪によって削減される人口の予想も。
「3次元にいる優秀な調査員たちが、集めてくれた情報の結果だ。人類の多くが死ぬことになるが、しかたない。戦力を失った各国は、やがて兵を引き上げるだろう」
「それじゃ、精油計画は? ガトフォセが死んだら、精油計画に障害が出る。フランスの衛生状態をなんとかしないと、ペストが復活するぞ、また中世の暗黒時代が来る!」
「ペストなぞ、また倒せばいいだろうに。我々は霊だ。精油を普及させる時間なんて、いくらでもある。それより、泥沼化した世界大戦を終わらせることのほうが重要だ」
「しかし――」
「オレンジ、これは精霊界全体の決定だ。衛生班は送らない。スペイン風邪にはぜったい関わるなよ。精油計画には、また新しい霊能力者を探せ」
「おい、どうしてそんなにまくし立てるんだ? 待ってくれ、スペイン風邪を倒せば――」
「この『真の薫香』に意見する気か? ナイトのくせに、えらくなったもんだのう。よいか? よく聞け、おまえは現時点をもって除籍だ。アロマ連合のナイトとしての地位を剥奪する。いままでよく働いてくれた。ナンパでもゲームでも、好きなことをして生きればよい。わしもそろそろ引退したいよ。こんな形になってしまったが、我が愛しの弟子よ。よい人生を」
いっぽう的に通話を切られたオレは、信じられなかった。
たった数分で、地位も仕事もうしなった。
そして48時間後には、ガトフォセもうしなおうとしていた。
「ありえない。クソッ、意味がわからねえ! 応援を要請しただけだ、何が起こってる?」
オレが蹴った霊体のバケツが看護師にあたった。
「キャァあ⁉︎」
なんのバックもない、ただの浮遊霊になってしまった。
しかし、オレはあきらめきれなかった。きっと、なんとかなる。そんな柑橘系らしいポジティブ思考が、ほんとイヤになる。
「老いぼれめ! 何かスペイン風邪を倒す方法があるはずだ」
人間がTレックスを倒そうとするようなもんだ。伐採のような絶望感がただよう。どうすればいい?
「落ちこんでるとこ悪いけど、わたしも手伝わないわよ」
「……そうだ。ラベンダー、おまえがいるじゃないか。そうだよ、あの大ペストを浄化した、マスター・ラベンダーがいる」
「だから手伝わないってば」
なんとしてでも、おまえを引きずりこむぞ。
「どうして? おまえがいてくれれば、ガトフォセを助けられる。スペイン風邪を倒せるかもしれない」
「あなた、『真の薫香』の話をちゃんと聞いてた? スペイン風邪に関わるなって。植物界だけじゃない、非物質界全体の決定よ。反逆者になりたいの?」
「おねがいだ、オレといっしょに来てくれ」
我ながら、なんてなさけない頼みかただ。ナンパするときはもっとスマートなのに。
ラベンダーはキレた。
「おねがいってなに? わたしはニンゲンを殺したい。たくさんのニンゲンに死んでほしい! 3次元の植物も動物も、言葉はしゃべれないけど、気持ちはある。彼らがおねがいしたとき、ニンゲンが助けてくれたことはあった? 平気で殺したでしょ!
この前のブタ処分のニュース、見た? 悪とか正義とか大義名分とか、意味わかんない! たとえば宇宙人が人間を育てて、人間を食べたら、地球人類はどう思う? ヤツらは悪だ、滅ぼせっていうでしょ。どうしてそんなクズを助けないといけないの?」
「正論すぎて、ぐうの音も出ないな」
ラベンダーを味方につける口説き文句をいくつも考えたが、ここまでいわれたら、オレは何もいえなくなった。
「それに、わたしたちはもう、パートナーじゃない。一般霊と、アロマ連合のマスター。精油計画はわたしが引きつぐから、荷物をまとめて、とっとと植物界へ帰りなさい」
「冷たいんだな」
味方にしたいけど、これがせいいっぱいの言葉。
「ちがう、合理的なの。ソロモン王にも会ったことがあるわたしから、200歳の若者へのアドバイス。別れは手早くすませること。じゃないと、かなしくなる」
オレはヒントを見つけた。
「なんだ? もしかして、さみしいのか?」
「馬花《ばか》いわないで、そんなわけないでしょ」
形勢が逆転しそうな気がするぜ。オレはテキトーなことをいって、こっちのペースに引きずりこむ作戦に出た。
「いや、そうだ。おまえはさみしいんだ。紀元前の頃から、いつもいつも戦いばかり。人間とちがってオレたちの寿命は長すぎるし、家庭だってほとんど持たない。なあラベンダー? この4年、オレたちはそれぞれちがうことをしてたが、それなりに楽しんでた。それが終わっちまうんだ。かなしくないわけないよな」
ラベンダーは、感情をたかぶらせた。
「おい愚草! わかったようなことをいうな、テキトーなこというとブッ枯らすぞ! おまえにわたしの心が読めるわけない」
こうなればこっちのもんだ。ラベンダーが図星かどうかは、どっちでもいい。相手のペースを乱したほうが勝ちなんだ。
オレは開心術や閉心術が得意だが、ラベンダーの心は読めない。実力のケタがちがいすぎる。だが、オレにはラベンダーのような高い霊力はなくても、持ち前の機転とナンパ力がある。
「いや、読めなくてもわかるね。オレさまはオレンジの精霊だ。ヒトの心は手に取るようにわかる。おまえの本心がわかるぞ。怒りのおくに、深いかなしみが視える」
そして、いらついたラベンダーは話題をムリヤリ変えようとした。
「そもそも、どうしてそんなにガトフォセを救いたいの? ガトフォセだって、ただのニンゲンでしょ」
「それは――」一瞬だけ考えた。ここが勝負だ。だけど、正直に答えることにした。
「ともだちだからだ」
すぐに後悔した。大切な場面で、ぜったい選択をまちがえた。
ラベンダーは、「は?」って顔をしている。
「ともだち……だから……」
終わった。もう、荷物をまとめて帰ろう。オレはガトフォセを見た。これだから人間はいやなんだ。こんなやつを助けようとしたせいで、師匠も、仕事も、地位も、全部うしなっちまった。何もかも忘れたい。しばらくジャパンへ旅行しよう。
「わかったわ、助けてあげる」
「へ?」
「木が変わったっていってんの! 浄化するんでしょ、スペイン風邪!」
「そうか。……なんで怒ってるんだ?」
「べつに! 怒ってない!」
「怒ってるだろ」
「わたしの木がまた変わらないうちに、さっさとブッ殺しにいくわよ!」
「ほんとにいいのか? 連合に逆らうことになるぞ」
「ただ、考えが変わっただけ。スペイン風邪を浄化すれば、世界大戦が長引く。そっちのほうがニンゲンがいっぱい死ぬ、そう思っただけ」
(木が変わる。植物界のスラング。植物界には英語みたいにスラングがいっぱいある。だからオレは、皮肉的なイングランドが好きなのかもしれない)
「植物なのに、ロックだな」
「アンタわかってる? スペイン風邪は強敵よ、ペストなんてくらべものにならない。アロマ連合の応援が期待できない以上、状況は絶望的」
オレは不敵に笑い、ラベンダーを見た。
「でも、勝つつもりなんだろう?」
「馬花ね、仲間が必要よ。信頼できる仲間がね」
第1輪 良きトイレと髪の毛は、人生を満喫する上で欠かせない
トイレがだめなら何もかもだめ
――オレンジ
フランスといえばなにをおもう?
芸術の都パリだって? マジでいってるのか?
あんなとこはゴミのはきだめだ。悪臭の都のまちがいだろう。
空気はきたないし人間がおおくてゲロが出る。
フランスといえばオレが今いるここ。
美食の街リヨン。
世界でいちばんうまいもんが食えるし、シルクだって最高だ。ほんとうに女性の肌みたいなさわり心地で、ここ以上によくできたシルクを見たことがない。おまけにガトフォセ香料店もあるしな。ま、こっちに関しちゃこれからだが。
しかし、なにもかもがすばらしいと思えるリヨンにも欠点があった。
それは……トイレの数はパリに負けてるということ。
ただいま世界大戦中。世界が今のぞんでること。それは平和でもなく、平等の権利や投票権、独立でもなく、公衆トイレだった――と当時を見ていたオレはおもうね――人間界におけるトイレ事情というのはそれぐらい切実だった。
若いやつはみんな兵士になっちまったから、街を掃除するやつがいないんだ。
(特にパリはひどい。街中がウンコまみれだ。観光に来られてもウンコ以外なにも案内できない。これでも公衆トイレの数だって増え、ちっとばかしマシになったんだ。18世紀の頃は1歩だってまともに外を歩けなかった。まあ、リヨンも似たようなもんだが)
政府というのは国にとって頭脳だが、フランスの首都にあるのはケツだ。ウンコばっかり。パリのあの汚さには打つ手がない。
どんな物語の悪役でも、糞尿で発酵したセーヌ川にくらべたら、宝石のようにきれいな心を持ってるってもんだ。
敬愛するナポ公はどうやら、辞書に不可能という言葉だけじゃなく、衛生という言葉ものせ忘れちまったらしい。
(これぐらいいわせてくれ。この大戦でどれだけ自然が犠牲になったとおもってるんだ)
ん? ああ、自己紹介がまだだったな。
オレさまはオレンジ。植物界の大スターだ。
植物界の大スターであるオレさまと会話できてうれしいか?
そりゃそうだろう。人間界でも超人気だからな。
ジャパンには会いに行けるアイドルという言葉があるが、そりゃオレのためにあるようなもんだ。
スーパーに行きゃ会えるんだからな。
近所でなんでも手に入るこの時代に感謝だな。
なんでこうやって本を読んでるおまえと会話できるんだって? 人間にしちゃかしこいな。ほめてやろう。
それはな、オレさまが霊だからだ。霊は次元も時間も超える。オレをそこらへんの三流キャラクター共といっしょにするな。
この地球には、いろんな生き物が暮らしてる。人間みたいに目に見えるやつらもいれば、オレたち精霊みたいに見えないのもいる。
人間には人間の、植物には植物の、動物には動物の。それぞれの世界があるんだ。
そしてオレの所属する植物界はリーダー的存在、つまり、諸君らにとってのアメリカ合衆国ってわけだ。
西暦1918年。世界中を巻きこんだ人間同士の派手なケンカのせいで、精霊界は超繁忙期。
人間が生み出した憎しみや怨みのせいで、悪霊とか悪魔がいっぱい出てきたんだ。世界中の人間界で、休むヒマなく来る日も来る日も浄化作業。まったく、人間には愛想が尽きるね。
まあ、オレはそこまでいそがしいわけでもない。
いまだって、昼下がりにこうやってガトフォセ家のキッチンで、おいしいパンペルデュを作るぐらいの余裕はある。
(つまり、デザートを作りながらトイレの話をしてたわけだ)
アロマセラピーって言葉は知ってるな?
人間をリラックスさせたり、病気から身を守るためのあれだ。それに使う精油を人間界に普及させるのがオレの仕事。だからフランスにいるんだ。
精霊としては、最高の仕事だな。もちろん皮肉だが。
フライパンからいい香りがしてきた。最高のパンペルデュを皿に乗っけたとき、やつは来た。
ラベンダーだ。
キッチンのとびらが勢いよく開かれた。
「う~ん、いい匂いね」
白いワンピース姿の子供がいった。オレの同僚のラベンダーだ。ハウスメイトでもあり、ガトフォセの家にいっしょに暮らしてる。かわいいが、性格は最悪。
「やらんぞ」
「欲しいなんていってないけど」
「なんの用だ?」
「ガトフォセが呼んでるよ。話したいことがあるんだって」
「わかった、あとでいく」
「ううん、すぐに来てほしいって。通りすがりの悪霊に食べられないように、それはわたしがみはっといてあげる」
「……おまえがいちばんの悪霊だ」
「ひっどい、レディになんてことを!」
「ただ食べたいだけだろ。それにガキじゃねえか」
「姿が中学生なだけでしょ、そういうアンタだってガキじゃない」
オレたちは精霊だ。人間みたいに肉体を持ってない。だからどんな姿にもなれる。人間の姿ってのは便利なんだ。それをよくおもわないやつもいるが。
そして、ラベンダーの言葉にキレたオレのひとことにより、第2次世界大戦は幕をあけた。
(第2次世界大戦? おいおい、そんなもの起こるわけないだろ)
「うるせーババア!」
ガシャン、ガシャン、パリン、グシャ、ビシッ、カァァァンンン。
物かげにかくれたオレに、頭に血がのぼった小娘は、キッチンにあるフライパンから皿、マグ、あるものをすべて投げてきた。
ガキっていわれるのはダイキライだ。大人になれないことをからかわれた気がして。
「覚えときなさい、年のことを女性にいうのは世界共通で失礼よ! 次元が変わってもね!」
「おまえが食おうとしたからだろ!」
頭の上を、何かがかすめた。フロアに落ちたのは包丁だった。オレたちは霊だが、念力で物を投げるぐらいのことはできる。
「食べようとなんかしてない、ほんとよ!」
「そういって食べたこと、あったじゃないか! おい、やめろ、あぶなっ」
「……女の子に、甘いものはガマンできないわ」
開きなおりやがった。信じられない。
「おまえに食わせてやれるのは、パリ砲ぐらいだ」
(パリ砲。今年の3月に登場したドイツ軍の秘密兵器。射程距離は120キロ・メートルってんだからおどろきだよな。だが命中率はイマイチだ。精霊界のベースボールでは、コントロールの悪い選手をパリ砲といって笑うんだ)
ガシャガシャガシャガシャガシャ。
ラベンダーは怒りを爆発させた。ナイフとフォークの雨が降ってくる。ドイツ人もビックリの猛攻。これがフランス魂か。するどい金属音がオレの耳をつんざく。
ふいに音がやんだ。
物かげから顔を出すと、キッチンの入り口に37歳のムッシュが立っていた。となりのラベンダーは痛そうに頭をおさえてる。ゲンコツをくらったらしい。
ガトフォセだ。ガトフォセ香料店の社長で、霊能力を持つ人間。つまり、オレたちが視える。人間界における唯一の協力者だ。
ガトフォセはいま、腕を組んで怒っていた。メガネの奥の目のなかで、炎が燃えている。
「何やってるんだ、2輪共! ああ、ラベンダー、オレンジ、どうしておまえたちはいつもそうなんだ。何があったか、弁解してみなさい!」
「オレのせいじゃないことはたしかだ」
「オレンジがわたしにババアっていったんだよ」
「おまえだってガキっていっただろ、おいガトフォセ、これ投げたの全部ラベンダーだからな」
「アンタが避けなければ、こんなに投げなかったわよ!」
「サイテーだな。イエスだって、おまえみたいな女に出会ったら、反射でパンチ食らわすね」
オレは変身してキリスト教のイエスみたいなかっこうになると、その場でシャドーボクシングしてラベンダーをからかった。
「枯れちまえ!」
ラベンダーがふたたびナイフを投げてきたが、イエスは修行のボクシングで鍛えた(であろう)反射神経でナイフをかわした。しかし、ナイフはかわせても天罰まではかわせなかった。
ゴツン。
ゴツン。
重たいゲンコツの音がラベンダーとオレの頭にひびいた。
ガトフォセが大声を出す。
「おまえたちが人間だったら、何も食べさせないし外出禁止にできるのに! イライラする。2輪で全部かたづけるまで、口きかないからな」
そういうとガトフォセは、キッチンから去っていった。
オレとラベンダーが、食器をすべてかたづけてリビングへ行くと、ガトフォセはお気に入りの赤い万年筆で手紙をかいていた。オレたちに気づくと、顔をあげた。
「ずいぶんと、おそかったな」
もちろん食器をかたづけてる最中も、オレとラベンダーは言いあってたからな。かたづけるどころか、殴りあいのケンカになり、経済状況があまりかんばしくないガトフォセ家の皿がさらに割れ、当分のあいだガトフォセ家では、スープ料理を食べるのをガマンしなければいけなくなった頃、ようやくオレたちは気づいた。このままではマズい。
そこで勝負をしたんだ。より多くの食器をかたづけたほうが、相手のいうことを何でも1つ聞く。
結果は……勝ちをゆずってやることにした。男だからな。女には優しくしなきゃいけない。ベンダー(売春婦)め。
ラベンダーが勝ち誇ったように、オレの肩に腕をまわしてきた。あわい紫色の髪が毒みたいに、首にかかる。
「お皿を割らないように、仲良くかたしてたんだよね」
「ああ、そうだな」
(おぼえてろよ!)
ガトフォセがいった。
「すわってくれ。2輪に話すことがあるんだ」
ガトフォセは疲れているようだった。しわくちゃの白いシャツがそう感じさせる。
「なんだなんだ、辛気くさい顔して。そんな顔してたら、また髪を燃やされちまうぞ」
オレはおどけて見せたが、ガトフォセはあきらかにムッとしていた。
「また叩かれたいか?」
ガトフォセはこの4年で、急激にふけた。理由はいくつかある。世界大戦が始まったから。あとは、ラベンダーに髪を燃やされたから。これが1番の原因だな。昔はもうちょっと、ジョークのわかるムッシュだった。
いわれるままにすわったオレたちは、マイペースだった。ラベンダーはコーヒーをすすり、オレは時間がたって水分をうしなったパンペルデュを、フォークでつついていた。
「オレンジ、ラベンダー、2輪に重大な話がある」
ガトフォセが重たい空気をまとって、かしこまってそんなことをいうから、オレたちはふざけた。
「なんだ? 世界大戦が始まったいま、何をいわれてもおどろかないぞ。それとも霊を徴兵しようってんなら別だが」
「アッハハ、そのジョーク超ウケる! 植物も動物も、おまえらの奴隷じゃねえよ!」
ラベンダーは自虐的に笑った。
「じつは、会社が倒産することになった」
このひとことに、オレたちは黙るしかなかった。さっきまでのおちゃらけた態度はどこかへ消えていた。ガトフォセは続ける。
「だから、もう精油を売ることはできない。おまえたちにもう、協力できないんだ。悪いな」
そういうとガトフォセは、席を立とうとした。
「おい、待て、理由を教えてくれ」
オレはあせった。それは困る。オレとラベンダーには、アロマ連合から与えられたミッションがある。精油計画だ。人間界に精油を普及させるというきわめて重要な役割が。
植物から作られる油、精油。
香りをかぐだけで幸せになれる、魔法の液体。
これを使って人間の心をゆたかにして、精神的に余裕を持たせる試み。
戦争も、伐採も、病気も、人間の心によゆうがないから起こる。その結果、搾取されるのはいつも自然だ。だから、精霊界――おっと、言葉をまちがえた――少なくとも植物界は人間たちを支援しようとしてるんだ。
それなのに、会社が倒産だって? 冗談キツいぜ。
「理由はいくつもある。今回の大戦でわが社の精油工場がつぶされたこと。それに、新しく契約した加工工場が、ストライキを起こしてる。賃金を上げろとうるさい。みんな、その日のパンを買う金にも困ってるんだ。賃金なんか上げられない」
やつれた顔でいうガトフォセ。疲れきった友だちの姿に、オレは同情した。
「ああ、わたしもよくストライキ起こすよ。どれだけイジめられても、イジメっ子を支援するアロマ連合にね」
ラベンダーはよけいなことしかいわない。
この女、悪魔か。
ガトフォセはいった。
「しばらくは、入荷予定の精油を売って食いつないでいくしかないと、社員たちと話しあったんだが、いつまで待っても来ない。それで業者に連絡してみたら、そんなものない、盗まれた! といわれ電話を切られた。最悪の治安だ!」
「まあ落ちつけよ、な?」
「落ちつけだって? おまえたちは霊だから気にしないだろうが、人間は食べ物が食べられなかったら死ぬんだ」
「なんとか方法を考えよう」
「方法だって? いいだろう。アイディアは?」
しかし何も思いうかばなかった。
「精油を輸入しようにも、農場はドイツに破壊されるし、香料を輸出しようにも、買い手がいない。踏んだり蹴ったりだ。香料なんて娯楽品、いったい誰が買う⁉︎」
「香りじゃ腹は満たされないからな。だが、軍には買ってもらえそうじゃないか? 兵士は衛生を求めてる」
「もちろん提案はしたさ。だが、そんなものより赤ワインはないかと訊かれたよ。うちもワイン農家になるべきだった」
(フランス軍はいろいろと娯楽品を買っていたが、なかでもワインが一番人気だったんだ。オレはワインよりジンのほうが好きだが。ここだけの話、最近は日本酒にハマってる。ともだちにはナイショだ)
「食べ物にはかなわないな。そういやオレも食べ物だった」
「戦争が始まってから、うちは赤字だ。支払いだって待ってもらえない。来月末までに払えなかったら倒産だ」
ガトフォセはストレスと悩みで泣きそうだった。
「いまだけの辛抱だ。戦争が終われば、みんな香水や娯楽を求めるさ」
「いつ終わるんだ? もう4年もやってる! なあ、オレンジ、ぼくに教えてくれ。精霊だから知ってるだろう? いったいいつ、このひどい戦争は終わるんだ⁉︎」
ガトフォセは大声を出した。頭のなかで何かが切れたって感じだ。興奮している。
「そんなことオレが知るわけないだろう、おまえたち人間が始めたことだ」
「ぼくは一生けんめい働いているのに、おまえたちときたら、ろくに働きもせず遊んでばかり。おまえはいつもナンパしてるし、ラベンダーはそもそも店にいない。ぼくの仕事を手伝ってくれたことがあるか?」
「本当にそう思ってるのか? 契約できそうな農場や工場を見つけたり、ラベンダーの栽培の仕方、蒸留法をそいつから聞き出して教えたのは誰だったか、忘れたとはいわせないぞ。それに、悪霊からこのリヨンを守ってるのはオレだ。だからこの地域は安全なんだ!」
「だったらぼくもいわせてもらうぞ! 見ろこの頭を。誰のせいでこんな頭になったと思う? オレンジ、ラベンダー、君たちはぼくに大きな借りがあるんじゃないか?」
う、これには反論できない。
「この頭になってから、妻と言いあいになると、いつもバカにされるようになった。昨日なんていわれたか教えようか? あなたが父で、娘は後悔するでしょうだ!」
(3歳の娘がいるんだ。ちょうどラベンダーを召喚した日に生まれた。ガトフォセとちがってかわいいが、ガンコさと霊能力の高さを受け継いでいる)
「髪を燃やしたのはラベンダーだろ」
ラベンダーは、自分のつめを見ながらひとこと。
「ニンゲンに仕返ししただけよ」
「オレンジ、おまえが魔法陣にらくがきしたからだろう! ぼくが精油事業に本気を出してるのは、フランスを清潔にしたいからじゃない! 自分の髪を取りもどしたいから――うっゲホ」
「ガトフォセ!」
ガトフォセはいきなり血を吐くと、イスから床に倒れた。
「おい、大丈夫か⁉︎」
ひどく咳きこんでいる。なかなか止まらない。咳きが出るたびに血を吐いている。様子がおかしい。
「おい、ガトフォセ、いま妻を呼んでくるからな!」
あわてたオレとちがい、ラベンダーはガトフォセが倒れても、すわったままスマホをいじっていた。
(なんで精霊がスマホなんていじってるかって? おいおい、そりゃ逆だ。どうして人間がスマホを使えてると思う? オレたちがアイディアを落として、普及させたからだ。非物質界ではスマホは紀元前からある)